2.学校・教育の病理的な現象
学級崩壊・いじめ・校内暴力・学習意欲の減衰・授業ボイコット・子供の自殺や殺人。
勉強離れ−学校での勉強に価値を見出せなくなり、ほどほどの努力しかしない。
努力や忍耐が価値からはずされ、そこそこの学力と生活で満足してしまう個性や自己満足、子供の自主性と主体性を尊重して、勉強からの逃走も個性となってしまう現実。
抑圧する学校・教師たち、受験の圧力からの解放というわかりやすいストーリーから、いっきに子供の主体性と個性の尊重への転換。 生活意識調査はプライバシー問題などにより学習意識調査に置き換わってしまう現実。
教師による指導から支援へという、一見子供の学習意識を尊重したような甘い言葉。
拍車がかかる塾・私学志向。
携帯電話・インターネットの怒涛の普及、学習意欲の問題、「学びからの逃走」という現実も。
そして「豊かな社会」の中の賃金格差と階層化社会の進行。階層社会は子供たちの学力の形成にも学力格差をもたらす。
「しっかり食事をとり、たっぷり睡眠し、基本的な勉強をしっかりとする」という基本的な生活や学習習慣の徹底がここへきて叫ばれているのだが。
<社会的な原因>
(1)少子化で入試が緩和され、受験圧力が弱くなったために学習意欲が減退。
(2)詰め込み教育や過度の受験競争がスト� ��スを増大させ、意欲を減退させた。
(3)学歴信仰が崩れ、勉強してよい大学に入っても、社会的な成功に結びつくものではないという無力感。
(4)社会的な豊かさや環境・価値観の変化のため、子どもがこつこつ勉強したり努力することに価値をおかなくなった。
(5)享楽的な娯楽が増え、忍耐や持続が伴う学校の学習活動に興味を示さなくなった夜更かし・ゲーム・マンガ。生活習慣のみだれ。。
(6)社会的な教育力の減衰
親が子に対して、学習することの大切さを言わなくなった。親の教育や学校に対する要望の多様化。社会の階層化の進展。
(7)人間関係の希薄化による対人関係能力の弱さ。
<教え方の問題>
(1)ゆとり教育の教育改革路線により、教科が軽視され、内容や授業時間が減った。
(2)「指導より支援」、体験活動中心、興味関心重視という風潮が強くなり、知識をしっかりと教えることが教え込みや注入だとして批判されるようになった。
(3)先生が宿題を出さなくなった。家庭学習のスキルや習慣が付きにくくなった。基礎・基本的な知識・技能・理解の定着がしにくくなった。
(4)学校の内外で安易な指導方法や教材が広まったため(?)、生徒の学習方法が質的に変化し、学習スキルが身に付かなくなった。
(6)教師の教育力の低下
学習することの意義をしっかり教えることができない教師が増えた。子供の自主性や個性の尊重が、積み重ねの努力や忍耐を避けて安易な自� ��満足や自己肯定の風潮を生み出している。
<教育にかかわる制度の問題>
(1)受験科目を減らすことで、受験に関係ない科目を勉強しなくなった。
(2)私立校が受験で優位にたち、経済的な上位階層に受験競争が限定される傾向がでてきている。家庭の教育力の格差。
(3)塾に行く子と行かない子の格差。親の収入や学歴、文化度による学習環境の格差。
それらをどう乗り越えるか。多少前後するが、これを解決するのが文部科学省の教育改革、生きる力・ゆとり教育・個性化教育・多様化ということになるのだが。
一方、「新しい学力」にも、能力差や格差が発生することは予定されていなければならない。学習すべき項目を減らして、全員が100点をとれるよう指導しているのだから格差はないなどというのは甘すぎて問題にならない。
「自ら考える力」「生きる力」「問題解決的能力」「問題発見能力」「考える力」「表現・技能」「創造力」「判断力」にも当然、能力差・学力差が生じてくる。むしろ知識・理解中心の時代よりいっそう顕在化してくるといったほうがよい。「一人一人のよさ」や「自ら考え、自ら学ぶ」・知識獲得の個別性という「個別性」の論理を強調す� ��ことで、現実の学力評価の客観性や価値の序列性が棚上げにされる。そのなかで勉強する強者と勉強しない弱者の格差や社会階層間の格差の問題がいっそう顕在化してくる。
「新しい学力」は、エリート的な能力、エリート対象の教育目標か。それを大衆的な規模で、学習指導要領という法的拘束力を持った制度を通じて全国一斉一律に始めた、日本的な平等主義か?だが、現実には個性尊重の名のもとで、教育の階層化が進むことになる。その結果は、社会の不平等と格差化の拡大再生産をもたらすことになるのでは。画一化を嫌い、個性化を進めることは、どの集団の子供たちにも、同じ結果をもたらすわけではない。平等を犠牲にするほどの覚悟がいるのでは。(苅谷剛彦氏)
「教育内容の3割削減」・「完全週休2日と総合的な学習の時間による2割削減」、これでは全体としての「ゆとり」は1割にしかならない。そもそも「ゆとり教育」はなかったのではないか。いやそもそも「詰め込み教育」さへなかったのではないか?「ゆとり教育」のためではなく、「ゆとりが実現されなかった」ことによる学力低下では? 「ゆとり教育」実現の失敗、「詰め込み教育」是正の失敗。これをどのような方向で乗り越えようとするのか。勉強時間の減少という単純な指標からでも見えてくる。
「詰め込み教育批判」から「Child Sentered Approch」(自発的な学びのサポート)へ。だがこの考え方は、「子供たちが学びたくないといっているのだから、無理に教える必要はない」という意見に流される危険性がある。「自ら学ぶ意欲」の理念だけでは、十分な学習意欲を持つにいたっていない子供たちの、当然の学力低下を生じさせてしまう。「知識偏重・暗記中心」から「興味関心・思考力・判断力重視」への単純な移行は、欧米・北米で失敗している事例だという。子供中心主義的な教育論が実際に施行されたときの限界や失敗事例がたくさんあるのに、なぜ無反省にそれを繰り返そうとするのか。このことを十分に踏まえて対策を考えるべきだろう。
「知識を教える」ことは悪か。
日本社会の曲がり角は、教育の場だけではない。産業社会から知識社会への転換期 にあって、日本のように「ゆとり教育」や教育内容のレベルダウンに取り組んでいる国はない。「子供中心」の教育は1980年代のアメリカの試みで大失敗している。習熟度別・能力別指導も1970年代が各国で試みられたが、欧米の先進国ではもはや採用されていない。
多様な能力や関心をもつ子供たちが相互の違いを通して学びあう「協同学習」の実現が、世界の教育改革の趨勢となっているのだが。
いずれにしても、基礎・基本の確実な定着からしか、「生きる力」も「確実な学力」もみえてこない。「ゆとり教育」は魅力的だがその幻想にとらわれていたのでは、改革の方向は見えてこない。
3.だか、学力低下という現実
●「学力低下論」
(和田秀樹氏)
受験勉強は子供を救う! 受験勉強の肯定的価値。受験という価値観の崩壊に歯止めが必要。「知識軽視」はマスコミ・教育関係者が拍車をかけている。
子供に明確な目標を。
内発的動機付けは現実的でない。
よい点をとって誉められる。高い学歴を求める−外発的動機が学習動機として強い。
受験競争の緩和が学習意欲を低下させ、学力を低下させている。
昔のように、受験勉強をさせろ。教科学習を削ってまで目標・方法の不明瞭な総合学習を課すべきではない。